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そんな世界を考えたこともなく

そんな世界を考えたこともなく


かつてこの国でも、学生が熱を持って戦っていた時代があったと言う。

優美は、一冊の汚れた本の中で見つけた、異国の、まだ少女と言えなくもない女の叫びを聞いた。幻か?いや、確かに聞いたのだ。今もほら、そこで。


目の前を、成立しそうな法案に反対する人々が列を作って通り過ぎてゆく。妙に整然としたその光景に、優美の目が泳ぐ。

優美の生きる日常と乖離した少女の叫びは、今の時代の、今の現実なのだろうか。

それとも……



greedy


汚れも目立たない横断幕と 怒号とは程遠い妙にリズムの合った叫び たいして優しくない異国の友達が 乾いた薄笑いで口角をあげた

ナニガホシイノ? ホンキデイッテンノ?



fall


あなたが叫ぶ 引き金から飛び出した鉛は 罵声を切り裂き石の壁にめり込んだ

「さあこれで生きられる 命を取られないし食い物にありつける 捕まえろ、早く」


自分を傷付けほら わたしをまた孤独にする

「うまくやれよ、ラナー」

故郷を捨て逃げ込んだこの街で わたしはきっと花を売ろう


群衆の熱は火炎瓶を溶かし やがて来る静寂を待つ

ほら わたしひとりが 行き先の無い道の端で花を売る 何日かすればまた 怒り狂う若者が徒党を組むのだろう


地下から這い出したあの人は 牢獄という 麻薬のような安全を手に入れた 愚かな人間は 神に化石を捧げ 富とボロを纏った孤児を舐め回す

ラナーと 誰かの呼ぶ声が聞こえる わたしは何処にもいかずに ここで花を売ろう 腐りきった住処の庭に咲く ただの雑草は 見すぼらしいまま 枯れるこという事をまだ知らない 誰か、おしえて



Escape


何処かに行くつもりも、アテも無かった。 それでも、何も信じなくなったわたしは考えられる限りの汚い手を使って、結局は船に乗った。 花は枯れるより前に腐った。 だからその時、魂の肉片を火薬の匂いがする悪魔の下僕に売った。

ミセモノゴヤノ カチク ダッタカラ まるで。

「うまくやれよ、ラナー」

赤黒く光る、頭の落ちた薔薇の棘がさかんに引っ掻きキズを作る。 そしてたいしたことのない放浪の先で、わたしはずっと一緒に生きてきた、自分の影を無くしたことを知った。



freeze

ぬるい正義に侮蔑のツバを吐くわたしは 命をかける凶器の乱舞の中に 自分の塊を見る 安らぎを欺瞞にかえているのは 腐ったまま凍った自分自身

それを隠すために仮縫いの服を羽織った わたしそのもの



cry


「人の尊厳って、そう言うこと考えた事ある?」 いつだったか、同じ職場で働く優美が大きな目を少し伏せて、突然口にした。 わたしは首を傾げたと思う。だってそれまで旦那の愚痴を聞いて貰ってたはずだったから、確か。 「自分の日常とは無縁でしょ。今この瞬間にも銃弾に怯える人のことなんて想像できないでしょ?」 優美はコーヒーカップを弄びながら一方的に話を続けた。 「でね、じゃあそんな怯えた暮らしをする人とこうやってお茶してる自分が、同じ世界に生きてるってことが嘘みたいで、それってなんかの意味があるのかなってちょっと思ったの。 いや、別に善人ぶるとかじゃなくて、たとえば命の危険に晒されてる人がもし、もしよ、この店に飛び込んできて目の前で助けて!って言ったとするじゃない。その時に何かするのかな、わたしは…… って思っただけ」 それだけ言うと、優美はスマホに目を落とした。 何となく覚えている限りでは、そんな感じだった。 わたしはその時、彼女何かイライラするようなことでもあったのかな?なんて悪いけどそう思った。 誰だって自分の事で精一杯だもの。 ただ、そういえば彼女に言われた事がある。活字の中で生きる人の声を、自分は聞いたことがある、とかそんなような事を。   そう、そっちの言葉こそ、むしろ記憶に残ってるくらいだから。



dignity


「生きるってどういうことか知ってるか?ラナー 取り敢えず今、命を取られる脅威を排除してメシを食うってことだ。

うまくやれよ、ラナー」

そうやってあなたは言った それならばわたしは生きている わたしはまるで 死にながら生きている 命を取られる脅威を他人に押し付けたわたしは 叶うはずのない心底贅沢なものを夢に見る 自分を抱きしめる二本の腕と いくばくかのやすらぎ もしそれが手に入るのなら 霞を食べて目を瞑り 石ころだらけの地面に横たわろう

生きるってどういうことか知ってるか?ラナー




Ranā 日本語で優雅で美しいとの意味を持つ女性名だと言う。



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