野辺に咲く花
- 吉田翠
- 4月2日
- 読了時間: 2分
野辺に咲く花
*この世の端より。

わたしは野辺に咲く花。
クロリスと名乗っていた頃のわたしの骸むくろを、今宵も愛おしみ舐め回す西風の神ゼピュロスよ。
力ずくで我が身が手籠めにされた時、目の裏側を這うように流れた血の涙を凍らせて、わたしはクロリスの身体と名を捨てた。言葉を持ち動きもするが、クロリスは心を持たぬただの骸むくろと言って相違ない。
わからぬのは其方西風の神、ただひとり。
わたしは野辺に咲く花。
わたしの吐息に乗った種子は、如何なる場所へも辿り着き、如何様にも花を咲かせる。
野辺に送られわたしの頭越しを通り過ぎ、黄泉の扉奥へ入る尊厳があれば、その度ごとに朽ちようとする古木こぼくに花の芽を手向たむけてきた。流せぬ涙を抱える者に向けて、くる年くる年同じ場所に同じ花を咲かせてきた。
人間が人間である限り、繰り返される愚かさは時に「神よ!」と叫ばせ時に「お母さん!」と叫ばせる。こころを売り渡した思慮浅き下僕の本音はどちらなのか。
わたしは野辺に咲く花。
欲望を満たすべく獲物を探す者に向けて、ラベンダー畑の幻影を突きつけよう。
行軍の道端をマーガレットやシロツメクサの白で満たしてみせよう。
火薬庫に掛けられた錠前の近くに、匂い立つジャスミンの花を咲かせよう。
銃口を向けた、その先にある大木を薄桃色の花で埋め尽くそう。
吹き上がるが如く、舞い立つわたしの現し身うつしみは言葉を封じ、振り上げる拳など持たずにそこに咲く。
ただそこに咲くのみ。
骸むくろと化したクロリスには棘のある真紅の切り花を持たせてきた。ゼピュロスよ。飽きるまでクロリスを囲い続ければいい。凍りついた笑みを浮かべる、その美しき骸むくろを抱きしめればいい。
それでも、だ。
掴みかかった腕にいつか月灯りが落ちたらならば、その下にただひとつだけの青いネモフィラの蕾を見せよう。それがクロリスのためならば。
春を待つ者達よ。
わたしは野辺に咲く花。春と花を司る神、フローラと名乗る者。