流れは塵と共に 後書き
- midoriandhana
- 4月29日
- 読了時間: 2分
更新日:6月26日

【流れは塵と共に】は、完成に長い時間がかかりました。
本編を書いた時点で、わたしの頭の中には大きなストーリーがありましたが、それをどのように示せばよいか、まったくわかりませんでした。
わたしが参加をしている神話創作文芸部(活動はnote)の中で、構想が見えてきました。また懇意にしている俳人の草笛さんが詠んだ一句も、大きな支えになりました。
この俳句は、わたしから世阿弥の話を聞いて詠んだ句であると草笛さんからお聞きしました。
嬉しい限りです。
『はじめに』で書いたように、今作の冒頭に出てきた大避大神は秦河勝を神格化したものです。世阿弥は秦河勝を能の創始者に位置づけています。(史実とは言い難い)
この大避大神からの授かりものかのように生まれた桔梗を、世阿弥の前で舞わせたい。それが彼女の背負う宿命であるという考えに至りました。
そして社会の底辺身分にありながら、したたかに生き抜く強さと、同時に哀しさを表したいと思いました。一般的な小説と違い、細切れの掌編ですので充分にそれができたかと言えば、残念ながらそうではありませんでした。
世阿弥は時代の歯車の中で実子を失い、自らは流刑の憂き目にも合い観世流は甥で養子の音阿弥の手に移る事になります。それでも『風姿花伝』は引き継がれ、現在も名著として読み継がれています。
晩年の世阿弥について個人的妄想に基づいた創作の散文詩を書いたことがあります。
秦河勝ー翁ー宿神ー北辰
上記の散文詩で記したこの考え方は、世阿弥の娘婿今春禅竹が打ち出したものですが、世阿弥の胸中にこれがあったと脚色をしたわたしのフィクションです。連作中の『花が舞う』においても、これを仄めかしています。
(実在の人物に対して妄想的脚色をした点はお詫び申し上げます)
尚、桔梗は本当に大避大神の授かりものだったのか、巫女に嘘は無かったのか。また山伏は天狗なのか凄腕の修験者なのか、その辺りは明確にしていません。『はじめに』でも触れましたが、それはわたしが、神なる者と人との接点付近に興味を持つからです。
細切れの掌編を繋いだつなたい物語ですが、朗読をしてくださった方がいらっしゃいます。
この世界観が好きだと言ってくださった方もいらっしゃいます。
お読みくださった皆様に感謝申しあげます。
吉田翠