封印
- midoriandhana
- 5月2日
- 読了時間: 5分
更新日:40 分前
虫の声が止み、少し深まる秋の頃。
「まこと仕舞いで良いのか?」
五十に手が届く頃合いの男がくつろぐ、月の灯りが美しい夜。公卿に列っする身分の男に仕舞いで良いかのかと問われた女は、今更と言った笑顔を見せた。
「もういい加減歳も歳。老いの坂に入ったおなごの舞では色に欠けましょう。そもそも白拍子舞は流行りから外れ、わたくしの舞もここ数年は直垂などを身につけ女曲舞に寄せておりましたゆえ、使うても貰えておったのでしょう。されど本来の曲舞は男のもの。せんだってはこれで最後と白拍子で舞いましたが、もう充分かと」
そう答えた女は名を桔梗と言う。白拍子として生きたこれまでが、ぽつりぽつりと女の頭をよぎっていた。
それまで暮らした村においては流れ者の母を筆頭に『都合よく持ち上げ都合よく捨て置く』態度や『怖いもの見たさ』の視線を受けていた。しかし母はその様な事は意に介さず読み書きに始まり、どこで手に入れたのか和歌集までをも子らに教え込んでいた。
母とは言うものの、女は赤ん坊の時に引き取られてきた子だった。しかし白拍子の舞手だった母は、実の子同様に女を育てた。
白拍子舞は当然の事、笏拍子や笛以外の鳴物なりものを使った様々な節回しで舞う術、手の加え方を教え込んだ。他にも催馬楽を始め琵琶など弾物を含む、宴の場で重宝される芸事を様々仕込んでいたのだった。
当然女は男の扱いまでも母から学び、暮らしのために時には春をひさいだ。それ故村人から受ける扱いは当然でもあった。
更に言えばひとつ歳上の、桔梗とは血の繋がらない兄を、母は女人の白拍子として育てたのだった。
少ないながら白拍子の男舞も存在した。しかし女人に仕立てたのは、売るために奇をてらった母のあざとさ故だったのだろうか。その理由を聞けぬまま、女の母は命を落とした。
子を道具と見ていた訳では無い。母は芸を頼りに生き抜くとは如何いかなる事かを知り抜き、教え抜いた人だった。母に死なれて以降、残されたふたりはそれを痛感していた。
丁度その頃女の前に現れたひとりの山伏。特に何かを言うでも無く、ただ現れたとしか言いようが無く、女の目を暫し見つめた後で何処へ行ったか姿を消した。
周辺の山々には時折修験者がいると言う。その中のひとりであると思えば何と言う事もないが、それ以降、その山伏の目を思い出すにつけ、母の生き様が女の頭に蘇るのだった。
母の死によって、兄と別れ身ひとつで都に出てきた女は当初異質なものを見るような、慣れた扱いを受けた。そして噂通り都は、お偉い方々の間で謀はかりごとや権力闘争が渦まき、一触即発平穏とは言えぬ時期であった。
しかしそもそもそれを好機と考える、桔梗とはそういう女だった。
持ち前の美貌をもって、安売りはせず目を付けた男と枕を共にし、芸を売りながら持てる手蔓てずるを利用し尽くして、僅か三年あまりで将軍家の御前へ立つに及んで、都一の舞手にのし上っていった。
「どうした、何を考えておる」そう男に問われ、次々と昔を思い出していた女は、気を戻して居住まいを正した。
「いえ、最後の舞の事を少々 …… 殿、殿にはあれやこれや長いこと可愛いがっていただきました。このような歳になりましたが、お方様のお許しを受けてわたくしのような者をこうして室のひとりに加えていただきました上は、殿とお方様に精一杯お仕えすることこそ御恩返しと心得ております」と、女は言った。
「なんだ、まだまだ美しい其方にしては随分と神妙な物言いじゃのう。其方からの耳打ちや、寝物語が随分と役にたっての今のわしじゃ。それについては内々うちうちでは皆心得ておる。これからは穏やかに暮らすがよかろう」と、労ねぎらうふうの男は続けて言った。
「それにしてもつくづく思い返すが、あの二条家での白拍子舞ほど見事だったものは他にない。あの折に居た若者なぞ身じろぎすらできなかったようじゃ」
「それはきっと殿の側女になりたい一心だったからと」一瞬の間を置いて、そう言いながら桔梗は空になった男の盃に酒を注いだ。
男は女の顔を見ながらよくもまぁと笑いながら、ひとつ尋ねたいと言った。
「其方、その昔に言っておらなんだか?秘めた男がいると」
すると女は瞼を軽く下ろして「このわたくしにそのような初な事を …… 」と言って寄せていた身体を離して笑った。
「ほれ、もっと近うに。今宵は少し冷えてきておる」
「源氏の物語にありましたなぁ。春よりも秋を好む中宮様のお話。このお屋敷から眺める秋の庭も美しゅうございますなぁ」
「其方はどうじゃ?春と秋と」
「わたくしは花の頃も紅葉の頃も同じように好きですわ」
そんなたわい無い話をしていたふたりだったが、そのうち男は酔いが回ったのか寝息を立て始めた。女は立ち上がり障子を少し開けひさしの下に出て、暗がりに沈んだ深まる夜の庭を見つめた。ひんやりとした風がわずかに髪を揺らす。
「そばに可愛い人はいるのだろうか」女の口からぽつりと言葉が漏れた。
心底無駄だと悟るまで、這い上がる為に己の心を凍らせて、男達のしとねに上がる歳月を多く過ごしたと、女は振り返った。
男に「秘めた人」と言われ、そこのみはと、封じていた気持ちを見せつけられていた。
道ならぬ想いでは無いとわかりつつ、それを良しとしなかった兄。
あの時離れてより十五年。今頃どうしているのだろうか。男としてやり直すと言った兄ではあるが、暮らしは立っているのだろうか。いや、人様から見ればご大層な生き方をしてきた己が、今更何を思ってもたわごとにしかならぬと、次々と沸き上がる想いを、女はねじ伏せるように堪えた。
月は秋と言う。じゃが正直秋を好む気になどなれぬ。色華やかな葉の装いは程なく裸木になる印。朽ち果てる前の一瞬の輝きなど要らぬと、女は思った。
そして「最後と決めた白拍子の舞を見ておった、あの若者の眼まなこは本物。己の出る幕はもう無くて良い。これよりは心静かに …… もう良かろう …… のう、山伏」と小声で呟やきながら、池に落ち揺らぐ月の影を見つめるのだった。
── 月灯りを月華とも言うらしい。ならば何と儚い華なのか ──
了