top of page

​流れは
 塵と共に

検索

序章 荒ぶる者の魂、その果てへ

  • 執筆者の写真: midoriandhana
    midoriandhana
  • 5月12日
  • 読了時間: 4分

更新日:5月25日



── 夢の中に白い大蛇が現れ、我が体に巻き付いたのだ ──



 生まれた子に乳をやりながら、巫女は下女に向かってそう呟いた。


 時は鎌倉幕府滅亡後の建武の乱が収束する前年、建武政権の雲行きが怪しくなっていた時期。

 都から西へ下った、海を見下ろす地に大神を祀ったとある社。

 奉納前の巫女舞練習中に、控えていたひとりの巫女が突然奇妙な声をあげて崩れ落ちた。そのまま数時間を眠り続けただろうか。運び込まれていた小部屋で目を覚ますと、何事も無かったかのように巫女は振る舞った。


 そんな事があって何ヶ月か過ぎた頃、その巫女は腹にうごめく物がある事に気付いた。あろうことか子を孕んでいたのだった。


「身に覚えはございませぬ」


 巫女は言い張ったが、そんな言い分は戯言と神主は取り合わなかった。ただそうは言っても神主も人の子。社の近くにある掘立小屋を貸し与え、巫女は社に仕える年老いた下女ひとりの手を借り子を産んだ。

 産んでみれば可愛い我が子。しかし親を早くに亡くし、頼る者もいない身を考え、途方に暮れる巫女であった。ただそれでも乳を含ませるため、生き延びるために、噂が噂を呼ぶ住み慣れた地を離れる決意を固めた。


 それならばと、神主は旅の当座をしのぐ施しを巫女に与え、そう遠くない場所での合戦の残党がいなくなる頃合いまでは此処に居るようにと言った。そうとは言え、当ての無い事を不憫に思った下女はツテがあると言い、それを頼りに巫女が向かった先は、ほどなく戦場となる近江だった。



* 



「ここでお間違いございませぬか?」


 六十の坂を越えた風情で、古びた琵琶を抱えた男が尋ねた。


「間違いない。散々の戦には無関心だったこの神坂峠の大地が唸りをあげておる。この地におるのも荒神。別物とは言え、この地の荒神とて此度は知らぬ存ぜぬともいかぬのであろう」


 堂々とした体軀の山伏は、静かな声で続けた。


「荒神が動き出す前に取り戻さねばならぬ」


 信濃と美濃の境は時に移り変わり定まらなかった。そんな曖昧な木曽の山々が連なる場所に難所神坂峠がある。老人と山伏が待ち構える神坂峠はその厳しさが故に、追手から逃れようとする者達の中には迂回路の木曽谷をあえて避けて、こちらを選ぶ者もあった。


「来る!」


 枯枝を踏みつけながら、夜の山道を慎重に進む二人の男。


「脅し上げて貰い乳をするのも、これ以上は面倒だ。この峠を越えたら園原だ。雪が来ねぇうちに、赤ん坊を高値で売り飛ばすぞ」


「死んじまったら元も子も無いからな。馬鹿な女だ。男を知らぬ筈もなかろうに、みすみす殺されるような真似をしおって」


 赤子を抱えた二人組は、近江の負け戦から逃げてきたいわゆる落武者であった。たまたま出くわし手籠にしようとした女に刃向かわれ、切り捨てた挙句に首のすわりもまだ不完全な赤子を奪って来たのだった。


 二人組が間もなく峠越えだと思ったその時、低く、空気を切り裂くような音が聞こえてきた。


「…… なんだ、これは……」


 琵琶の音であった。


 どこから飛び降りたのか、落武者が刀に手をかけようと身構えたその時、山伏の身なりをした男がドスンと足をつき、二人組の目の前に立ちはだかった。

 息を飲む落武者。山伏かと思った男の顔は月灯りの中にあってなお青黒く、鋭い眼光を放ち、口元は大きなクチバシのような形をしていた。


「天狗!」


 天狗は赤子を奪うと懐に押し込み、落武者二人の首をむんずと掴んで、闇に沈む峠の下へと投げ飛ばしてしまった。

 ふっと息を整えると、天狗の顔は元の人間の顔に変わっていた。


「間違いない。右頬から顎にかけてうっすらとあざがある。この赤子が……」


「ようございました」


「この辺りであれば乳も出て赤子を託せる女、白拍子崩れがおる。流れ者ではあるが、今は木曽谷の村外れに住んでいるはずじゃ。じきに戻る故ここに留まり後を頼む。荒ぶる大地を鎮めてくれ」


「かしこまりました。して、その後は如何に」と、法師が尋ねた。


「わしの手が及ぶのはここまでじゃ」


 そう言い残すと山伏は女の元へ向かった。



 ── 果たしてこの赤子が真実荒神たる大避大神からの授かりもの…… なのか…… 否か…… ただいずれにしろこの子の行く末は安泰ともいかぬであろう ──



 その果てにあるものが惨苦か安寧か。如何いかなるものであっても、あざの如く荒ぶる者の魂を抱え、自らの力と覚悟で道を切り開いてゆく生身の『人』として生きてゆく運命を、山伏、いや天狗は知っていた。



 ── 長き幾とせ、命を賭してそれを昇華させるのみ ──



 後に残った盲目の琵琶法師は、土地の荒ぶる神に鎮魂の祈りを届けるべく、弦を弾いた。

 それに呼応するように、月が一層鋭い光を落とす。琵琶の音は、深く深く大地に沁み込んでゆき、荒ぶる者の魂を鎮めていった。


 但しその魂の鼓動は、決して止まる事はない。





【了】



 
 
IMG_0917.png
© Copyright

 © 2017 Midori Yoshida

bottom of page