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​流れは
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忘却へ

  • 執筆者の写真: midoriandhana
    midoriandhana
  • 5月5日
  • 読了時間: 2分

更新日:5月22日


「この般若菩薩像は間違いなく父が彫ったもの。寺に寄進したものの盗人に持ち去られたと聞きました。これも仏の御加護なのでしょう」女はそう言いながら怪我の手当てをおこなった。


 女の父は仏像作りでそこそこ名を上げた人物だった。その木像は、山で足を滑らせたものの運良く木の幹にひっかかり助けられた、男の側に転がっていたのだった。


 その男は、自分は船頭なのだと言い事の次第を話し始めた。


 見るからに山賊と思われる男に渡し舟を出せと言われたのは、まだ大雨が上がらずにいた時であった。重さのある荷を運ぶために急ぎ川を渡らねばならぬと半ば脅されて船頭は舟を出した。

 ところが、渡りきったものの折からの雨で時間がかかり、荷を運ぶ手伝いを頼まれてしまった。賃金ははずむと言われた。もとより暮らしむきがいいとは言えなかった船頭はこれを引き受け、山越えを手伝う事になったと言う。


「頭を打ったのでしょうか、それ以前の事はとんと思い出せません」


「賊と思わしき男は命を落としました。盗まれた仏像を戻してくださったのです。怪我がよくなるまでゆるりと養生なさいませ」


「見ず知らずの者に……」と、男は頭を下げた。


 仏像はまた寺に戻され、船頭だった男は季節が変わるだけの時間を女の家で過ごした。そうしているうちに男と女の事、互いに情が移っていくのを感じていた。

 怪我の具合はよくなったが、ついぞ記憶が戻る事はなかった。女の両親は船頭にしては品があり、折目正しい男に好意を持ち、このまま娘の婿にと口にするようになっていた。


 夏が近づいたある夜、ふたりは寺を詣でた。寺に置かれた般若菩薩像に手を合わせながら男が口を開いた。


「昔の事を何ひとつ思い出せないのです。己の歳すらも。そのような者と夫婦になるなど……」


「般若は仏の悟りの智慧なのだそうです。思い出せぬ事は思い出す必要の無い事。必要があれば、些細な事で思い出すのではないでしょうか。大切なのは、あなた様が命を落とさなかったという事」


 ふと境内の隅に、すっくと立つ見事な花が目に入った。


「美しいですね」女が言った。


 暫く見つめていると男が口を開いた。


「桜の季節もとうに過ぎてしまったのですね…… 思い出せぬ来し方を捨て、生き直してみようか」


 そう言うと、女の手を取り寺を後にした。


「あなた様は美しい手をしておいでです。父が彫る仏のような……」


 無人の境内では二人が見つめていた立葵に、ひっそりと月影が下りていた。







 
 
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 © 2017 Midori Yoshida

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